ログイン久世が持ち込んだ書類は、一冊のファイルには収まらなかった。午前中だけで三つの厚いバインダーが机を占領し、その横には複写された契約書、印鑑証明書、登記事項証明書、保険関係の資料が年代別に積まれている。美琴は椅子へ腰を下ろす前に、それらの背表紙へ貼られた年号を目で追った。十八歳で榊原家へ嫁いだ年から現在まで、二十二年分。昨日まで数字として眺めていた時間が、今度は自分の名前を印刷された紙となって目の前へ現れていた。「集められるだけ集めました」久世は最初のバインダーを開いた。関連会社への貸付契約、債務確認書、役員責任に関する確認書、個人保証、株式の議決権委任、生命保険。ページをめくるたび、契約者欄や保証人欄に〈榊原美琴〉の文字が現れ、その横には見慣れた朱色の印影が押されていた。「これ……私の実印です」「印影だけ見れば、そうです。添付された印鑑証明書も真正です」美琴は唇を閉じた。実印は長いあいだ榊原家の金庫に保管されていた。結婚当初、喜和子から「大事な物は家の者がまとめて管理した方が安全です」と言われ、通帳と一緒に預けたことを覚えている。必要な時は征士郎が出してくれたし、美琴自身も、それを不自然だとは思わなかった。久世が一枚を指で押さえた。「署名もかなり似ています」と言う。美琴は自分の名を見つめた。榊原の『榊』を書く時に木偏を少し細くする癖、美琴の『琴』の最後をわずかに右へ流す癖まで似ている。急いで書いた自分の署名だと言われれば、数年前までなら疑わなかったかもしれない。「これだけ揃っていたら、私が違うと言っても……」「否定するだけでは弱いでしょうね」久世は慰めるような言葉を挟まなかった。だからこそ、美琴は視線を逸らさずに済んだ。彼が求めているのは、美琴を傷つけない説明ではなく、相手が否定できない材料だと分かっている。「一枚ずつ見せてください」「全部ですか」「はい。契約日と、金額と、相手先も」久世は一瞬だけ眼鏡の奥で目を細め、それから最初のバインダーを美琴の方へ押した。昼前まで、部屋には紙をめくる音とキーボードを打つ音だけが続いた。美琴は契約日を自分の帳簿へ書き写し、同じ年の資金繰り表と照合していった。最初に違和感を覚えたのは、十七年前の保証契約だった。榊原医療開発の関連会社が金融機関から借り入れた三千万円について、美琴が連帯保証人になったことにな
白い検査報告書が、机の上でかすかに音を立てた。久世が指先で向きを変え、美琴の正面へ滑らせたからだった。紙面には、採取された錠剤の外観、含有成分、製造番号、照合結果が整然と並んでいる。美琴は最初の数行を読み進めたところで、そこに書かれた薬品名が自分へ処方された記憶のないものだと気づいた。「確認されたのは二種類です」向かいに座る医師は、九条家の系列病院には所属していなかった。久世が利害関係のない第三者として選んだ医師で、持ち込まれた錠剤の分析も外部機関を通して行われているという。彼は美琴の表情を窺うような間を置かず、ただ必要な情報だけを順番に説明した。「一つは、美琴さんが処方を受けていた通常の睡眠導入薬です。問題はもう一つです。複数の錠剤から、処方記録に存在しない強い鎮静作用を持つ成分が検出されています。同じ袋に入っていても、すべてが同一ではありません」美琴は報告書へ視線を落としたまま、右手の親指を左の指先へ押しつけた。自分が毎晩飲んでいたのは、征士郎が寝室へ持ってきた小さな白い錠剤だった。水差しからグラスへ水を注ぎ、枕元へ置き、「今日は疲れているだろう」と穏やかに言われる。それが結婚生活の中であまりにも当たり前になっていて、いつから始まったのか正確には思い出せない。「長期間、混在した状態で服用していた可能性がありますか」久世が尋ねると、医師は資料を一枚めくった。「残っている錠剤だけでは期間までは特定できません。ただ、美琴さんがお話しになった症状とは矛盾しません」と答え、今度は美琴へ顔を向けた。眠気が翌朝まで残ること、頭が重いこと、集中しづらくなること、記憶が曖昧になること。聞かれるたびに、美琴は一つずつ頷いた。「朝、数字が出てこないことがありました」声にした途端、会議室の冷たい空気が蘇った。三年前、資金繰りが厳しくなった月の役員会で、取引先への支払額を尋ねられた時だった。前夜まで何度も確認していた数字が、口を開いた瞬間に頭から消えた。征士郎は隣から資料を取り上げ、「無理をしなくていい」と笑い、美琴に代わって答えた。別の日には、取引銀行との面談中に、前月の短期借入額を取り違えたことがあった。帰宅後、美琴は自分の帳簿を確かめ、書かれた数字と記憶の食い違いに青ざめた。その時も征士郎は怒らなかった。肩へ手を置き、「年齢のせいだ」「最近は物忘れが増えたな」と
九条家の一室に運び込まれた段ボール箱は、朝から一つずつ机の脇へ積み上げられていた。榊原邸の台所の床下から取り戻した手書きの帳簿は、湿気を吸って端が波打ち、古いものほど紙が黄ばんでいる。美琴は表紙に記した年を確かめながら、それらを年代順に並べていった。十八歳で榊原家へ嫁いだ年から、四十歳になった現在まで、抜けている月はほとんどなかった。二十二年という時間が、思い出ではなく、紙の厚みとなって目の前に積まれている。家計簿のように見える薄い大学ノートもあれば、会社の廃棄用紙を裏返して綴じたものもある。けれど中身は、食費や光熱費を記したものではない。銀行への返済日、手形の決済日、仕入先への支払い延期、役員が会社名義で落とした私的な会食費、不自然に膨らんだコンサルタント料、表の月次資料から消えた資金移動を、美琴が自分のために書き留め続けた記録だった。正式な肩書も社員証もなかった彼女は、会議室の外で聞いた数字と、征士郎が自宅へ持ち帰った資料と、取引先からかかってきた電話をつなぎ合わせ、会社が翌月を越えられるかを毎晩計算していた。「これを、全部お一人で?」久世朔臣は、銀縁眼鏡の奥で目を細めた。机の向かい側には彼が持ち込んだノートパソコンが開かれ、画面には美琴が入力した数字が年ごとに並んでいる。問いかけに驚きより確認の響きが強いところが、いかにも彼らしかった。美琴は古い帳面を一冊開き、二十年前の四月に引いた赤い線を指でなぞった。「最初は、会社が潰れたら困ると思っただけです。父の会社を救ってもらったのだから、今度は私が榊原家を支えなければいけないと……そう思っていました」口にすると、喉の奥へ乾いたものが引っかかった。救ってもらった、という言葉を二十二年間、何度使ってきただろう。征士郎に言われたからではない。喜和子に恩を説かれたからでもない。美琴自身がそう信じることで、朝から深夜まで働いても名刺一枚与えられず、経営判断へ口を出した時だけ「妻は家庭を見ていればいい」と笑われる日々に意味を与えていた。けれど、帳簿を一冊ずつ外へ出してみると、その意味だけがひどく脆かった。久世はページを数枚めくり、右端に並んだ小さな記号を見た。「△の横に二重線。これは何です」と尋ねられ、美琴は当時の記憶を探すまでもなく答えた。支払い延期を取引先が二度以上受け入れている印、翌月に現金が足りなければ取
榊原医療開発本社の一階ホールには、午前十時を過ぎる前から報道陣が集まり始めていた。 正面の壁には会社の紋章。中央には白い布を掛けた長机が置かれ、その前へ複数のカメラが並んでいる。照明の熱と機材の金属臭が、広い空間へ薄くこもっていた。 征士郎は開始予定時刻の五分前に現れた。 濃紺のスーツ。黒ではない。喪に服す夫ではなく、生還した妻を迎えたい男として見せるためだった。襟元は整い、頬にはわずかな疲労が残っている。無精髭はなく、ただ目の下だけを薄く落ちくぼませていた。 彼の隣には華帆がいた。 柔らかな灰色のワンピースに、薄い黒のカーディガン。顔色は白く、口元にはほとんど色がない。長い袖から覗く手首は細く、片手は胸元へ添えられている。 妊娠していることは伏せられていた。 記者たちが一斉に立ち上がり、光が何度も瞬いた。 征士郎は深く頭を下げた。「本日は、妻・美琴の件でお集まりいただき、ありがとうございます」 低く、静かな声だった。「まず、妻が生きて戻ってきたことを、夫として心から喜んでおります。事故現場では生存が絶望視され、家族葬まで行いました。あの時のことを思えば、今も妻がこの世にいるというだけで、言葉にできないほど救われています」 華帆が目元へ手巾を当てる。 記者の一人が、すぐに質問した。「奥様とは、その後お会いになりましたか」 征士郎は一瞬、言葉を飲み込むように伏し目になった。「いいえ」 会場がざわめく。「妻は現在、九条家の本邸にいると聞いております。しかし、家族である私たちには居場所の詳細も、治療状況も知らされていません。面会を求めても、弁護士を通せという回答しかありませんでした」「奥様ご自身が面会を拒否しているのでは?」「事故直後の妻が、どこまで自分の意思で判断できているのか。私はそこを心配しています」 征士郎は記者を正面から見た。「妻は崖から転落し、頭部にも重い傷を負いました。長年、不眠や強い不安にも苦しんでいた。そんな妻が目覚めて間もない時期に、家族から隔離され、五年間も生存を隠していた人物の保護下へ置かれているのです」 九条冬真という名を、征士郎はまだ口にしなかった。 先に、死亡を偽装した人物という形を置く。 記者たちの間で、紙をめくる音が増える。「九条家が奥様を監禁しているとお考えですか」「断定するつも
白い紙の上に、二つの「榊原美琴」が並んでいた。 一つは、美琴が役所の確認室で書いたもの。 もう一つは、印鑑登録の廃止と再登録を申請した書類に残されていたものだった。 文字の大きさも、線の細さもよく似ている。 けれど最後の一画だけが違う。 本物は右上へ細く抜け、偽物は下へ落ちていた。 美琴は鑑定用の机へ左手を置き、指定された文章をもう一度書いた。 右肩を固定しているため、筆記にはまだ慣れない左手を使っている。それでも、幼い頃から身体へ染み込んだ字の運び方までは変わらなかった。「普段は右手で書かれるのですね」 向かいに座る筆跡鑑定人が尋ねた。「はい」「事故以前の筆跡も必要です。契約書、銀行関係、手紙など、ご本人が書いたことを確認できる資料はありますか」 久世が革の鞄から複数の書類を取り出した。「銀行の過去の届出書、榊原医療開発の取引先へ送った礼状、寺の記帳簿、本人が保管していた資金繰り帳です」 古びた大学ノートが机へ置かれる。 帳簿の表紙には、長年触れ続けた指の跡と、薄い油染みが残っている。 鑑定人は拡大鏡を使い、一つずつ線の特徴を確認した。「偽造された申請書は、かなりよく模倣されています」「二十二年間、私の署名を見ていた人がいます」「ご主人ですか」「はい」 美琴は偽造された文字を見た。 征士郎は、会社の契約書へ署名する美琴の手元を何度も見ていた。 役員の妻として礼状を書く時も。 銀行へ提出する説明書へ名を記す時も。 父の命日に寺の記帳簿へ筆を置く時も。 書き方を知る時間は十分にあった。 それでも、美琴が宗一郎から教わった最後の払いだけは再現できなかった。「長く見ていれば、形は真似できます」 鑑定人が言った。「ただ、字の終わらせ方や、筆圧が変化する位置、線を離す直前の動きは、書き手自身の習慣が出やすい。こちらは別人が模した可能性が高いと思われます」「正式な鑑定書をお願いします」 久世が答える。「印鑑登録の復旧手続きと、偽造文書に関する申立てへ使用します」 鑑定を終えた後、美琴たちは役所の別室へ移った。 机の上には、印鑑登録廃止届と、新たな印鑑を登録するための申請書が並べられている。 新しい実印の印影は、均一で整っていた。 美琴が使っていた印鑑には、「琴」の左下へ小さな欠けがある。宗一郎が作らせ
九条家本邸の会議室には、窓がなかった。 黒い木の長机と、壁際に並ぶ書棚。天井へ埋め込まれた照明は白く、朝とも夜ともつかない光を落としている。 美琴は長机の末席に座っていた。 右肩の固定具はまだ外れていない。左脚にも硬い装具が巻かれ、椅子の脇には杖が立てかけてある。脇腹の傷は、長く座っているだけでも鈍く疼いた。 それでも、美琴は背筋を伸ばしていた。 机の中央には、九条家が美琴の保護へ使った費用の一覧が置かれている。 九条総合医療センターでの緊急手術。 集中治療室と個室の使用料。 二十四時間の警護。 崖上と周辺道路の調査。 久世の弁護士費用。 筆跡鑑定、医療記録の照会、役所への書類保全請求。 そこへ、独立した医療機関での精神鑑定費用まで加わっていた。 合計額を見て、美琴は一度だけ息を止めた。 普通に働いて返せる金額ではない。 正面には九条紫が座っている。 濃い墨色の着物に銀の帯。細い指で費用一覧の頁を押さえ、老いた目を美琴へ向けていた。 冬真は美琴の隣ではなく、長机の右側に座っている。腕を組み、会議が始まってから一度も資料へ視線を落としていなかった。 紫が口を開く。「あなたが本邸へ入ってから、九条家の人員と資金がどれほど動いたか、お分かりですか」「一覧を拝見しました」「数字を読める方なら、感想もあるでしょう」「私一人へ使うには、大きすぎる金額です」「その通りです」 紫は淡々と答えた。「あなたは夫に殺されかけ、崖下で冬真に拾われた被害者です。九条家が救助と治療を行ったこと自体を問題にするつもりはありません」 そこで言葉を切り、冬真を見た。「ですが、その後も病院、護衛、弁護士、調査員を継続して動かしている。冬真の私情によってです」「俺が決めた」 冬真がすぐに口を挟んだ。「美琴へ請求する必要はない」「あなたには聞いていません」「俺の金をどう使おうが――」「冬真」 美琴が呼んだ。 彼の顔がこちらへ向く。「私に話させてください」「お前が払う話ではない」「それを決めるための会議です」「決まっている。俺が払う」 冬真の声には、議論を終わらせる力があった。 だが美琴は目を逸らさなかった。「それでは、私はまた何も知らないまま、誰かが支払った場所に座ることになります」「榊原と同じにするな」「同じには